日本の原子力開発と六ヶ所村の再処理工場稼動までの歴史


日本の原子力開発利用の構造的特質
 世界における日本の原子力利用開発の特質は民事利用領域に限定されて行われてきた
ことといえる。日本は、独自の核武装を目指す「ド・ゴール的選択」を否定する一方
で、米国の核政策の円滑な遂行に関して全面協力をしてきてはいるが、それが軍事利用
という名目で行われたことはないためである。
 
国策という名の原子力開発
 原子力開発利用推進派の体制は「二元体制的・サブガバメント・モデル」といわれて
いる。二元体制的とは原子力推進勢力が二つのグループ(電力・通産連合と科学技術庁
グループ、現・文部科学省)をなし、それぞれが利害を調整しつつ事業拡大をはかって
いることをいい、サブガバメント・モデルとは2つのグループからなる原子力共同体が
その他の機関の影響力が極めて限定されている中で、原子力政策に関する意思決定権を
独占し、その決定が事実上の政府決定にあたることを言う。
 二元体制を詳しく説明すると、電力通産連合とは商業段階の事業を担当し、通産省
(現・経済産業省、資源エネルギー庁)・経済産業省系の国策会社(電源開発株式会
社)、政府系金融機関(日本開発銀行・日本輸出入銀行)、電力会社および傘下の会社
(九電力会社、日本原子力発電、日本原燃)が主な構成である。そのほか、原子力産業
メーカーの日立・三菱・東芝などもこのグループへの依存が高い。また、科学技術庁
(文部科学省)グループは、実用化途上段階にある技術を日本の技術として確立するこ
とを目標としたグループで、特殊法人の日本原子力研究所(2005‐日本原子力研究機
構)と動力炉・核燃料開発事業団(1998‐核燃料サイクル機構、2005‐日本原子力研究
機構)、理化学研究所と放射線医学総合研究所があり、新型転換炉・高速増殖炉の研究
開発、東海村での再処理事業(仏からの技術移転)、岡山県人形峠での濃縮技術開発な
どが主なプロジェクトであった。この図式は56年の科学技術庁の発足、日本原子力発
電の設立により明確化されたといってよい。
 次にサブガバメント・モデルについてだが、これは日本の原子力研究開発に限らずさ
まざまな政策分野で「官産複合体」が形成され意思決定過程を独占してきた事を指して
いる。つまり、行政機関が政策決定権を事実上独占し、国会が行政当局の決定を覆した
り、独自の決定を行ったりする能力を欠いている状態である。日本は政権交代が及ぼす
行政への影響も低く、政治家の意思決定が働いても官僚によって薄められるケースが多
い。また、地方自治体の権限も制限されており、国民一般が政策形成に影響を及ぼすた
めの制度も不在なのである。さらに、省庁ごとに政策決定の縄張りが作られることによ
って、縄張り内で各省庁が自立的に政策を決定するため、他分野にまたがった政策決定
時には相互間の交渉が行われることなく、省庁の力関係において妥協がなされてきた。
(六ヶ所村の環境汚染に関して環境省が口を出せないのがその例。) こういった体制
の下での意思決定は、サブガバメント・モデルの構成員の権益を大いに拡大することが
できるため、そういった意味では政策的意思決定は利益本位の物となることが多い。
原子力政策においても前出の二グループがサブガバメントを運営し、両者の合意にもと
づいた研究開発利用の方針を国策と位置づけるために、原子力委員会、電源開発調整審
議会、総合エネルギー調査会で審議が諮られているが、原子力委員会で新たな政策決定
の意思が示されたことは今までなく、両者の利害調整の場になっている。また、総合エ
ネルギー調査会では、議論された長期エネルギー需要の見通しが経済産業省を介して原
子力発電事業の政策的な方向付けに影響を与えている。原子力利用プロジェクトは皆、
これらの会から出される国家計画によって進められ、これらの計画を根拠として強力な
行政的指導をしてきたのである。原子力開発の推進が国策と認められている限り、国家
計画の一部となり官民一体となって推進すべき事業となる。

日本における原子力開発利用の始まり
 1939年にボーア・ホイラーによって核分裂理論が発表されて以来、世界の核エネルギ
ー開発ははじ
まった。米国においての核分裂研究は幼年期を2次大戦前に脱出し、あの有名なマンハ
ッタン計画が遂行されることになった一方、日本の核分裂研究では、陸軍で行われた
「二号研究」と海軍の「F研究」が細々と行われていただけ、敗戦後のGHQによる核分裂
研究の禁止措置がとられるまでウラン濃縮などの研究の粋でとどまっていた。敗戦後は
原子力開発研究の一切が禁止され、それは1952年の講和条約の発効まで続いた。しか
し、原子力の研究が解禁されたとはいえ、原子力開発を行うことで対米国従属や研究統
制により、軍事がらみの研究になるのではないかとの懸念から、科学界はすぐさま原子
力の開発を進める事はなかった。だが、この風潮が崩れ出来事がおきた。この出来事と
は、国家予算の中に原子力予算が突如として登場したことである。この原子力予算は中
曽根康弘氏を中心とした改進党の数名によって1954年3月2日に提出され3月4日に衆議院
本会議で可決、4月3日に予算案が自然成立している。そして、この突如とした予算案の
提出には、次のような経緯があると考えられている。
 1953年12月に米大統領・アイゼンハウアーが国連総会で行った「Atoms For Peace」
の演説により、核物質の国家間取引を促す国際原子力機関IAEAの設置を提唱し、原子力
の平和利用を進めようとした。しかし、この2ヵ月後の1954年2月17日にアイゼンハウア
ーは、核物質・核技術移転を2国間ベースで相手国に供与する国連総会での発言とは異
なる政策をしている。すると、急速に2国間多重ネットワークが世界中に構成されてい
くこととなる。当時原子力に関心を寄せていたと語る中曽根氏は、この構想を想定して
アメリカでの公式発表からわずか数日で予算の提出にこじつけたのである。このタイミ
ングの良さには、おそらく米国の原子力政策の転換を知る人物からの的確な情報があっ
たと考えられているが、民族主義的な核武装論者である中曽根氏が米国の核物質・核技
術移転解禁を聞き即座に米国からの導入を決断したとは常識的に考えづらい。米国から
の技術移転は、自国の自主的な核武装が困難になるからだ。ここで注目したいのが、 
 1954年3月1日に行われた米国のマーシャル諸島沖での水爆実験である。この実験によ
ってビキニ諸島の住民が被爆しただけでなく、第五福竜丸などの漁船の多くが被爆する
こととなった。第五福竜丸はビキニ沖、水爆実験実施地点から160キロほど離れた地点
で3月1日の未明に被爆をした。興味深いのがこの翌日に予算が提出され2日後には衆
議院本会議で可決していることだ。そして、第五福竜丸が焼津港に帰港し水爆実験の被
害が報道されたのが3月16日、予算自然成立が4月3日。第五福竜丸の元乗組員で実験に
巻き込まれた大石又七さんの著書によると、米国政府が日本政府に対し「水爆実験に日
本の漁船が巻き込まれた可能性があり、この水爆実験の被害を世界に広めない代わりに
原子力技術を提供する」といった内容を伝えたメモを見つけたと記している。この事実
は定かでないが、原子力研究者も全く知らないうちに突如として予算が提出され、しか
も2国間協定による核物質・技術移転の障害になる事件が発覚する直前というのは、単
なる偶然にしては出来すぎてはいないだろうか。こうして、国家予算に原子力開発予算
が組まれる事で日本の原子力時代は始まったのである。この先の歴史はまた次回。

六ヶ所村の再処理工場立地の背景
 1969年5月に全国各地に数ヶ所の巨大工業基地の建設と新幹線・高速道路などの整備
を目標とした新全国総合開発計画(略は新全総)の一環として、むつ小川原開発の構想
が登場した。住民は新たな職場が生まれるとこの計画を歓迎した。青森県は、この新全
総の開発計画に力を入れて推進した県で、1971年には「むつ小川原開発株式会社」が設
立するなど、着々と開発計画の準備を整えていた。このような準備態勢を後ろ盾に、県
は1971年「住民対策大綱案」と「むつ小川原開発立地想定業種規模(第1次案)」を発
表する。この内容は、三沢市、六ヶ所村、野辺地町に及ぶ広大な土地(17500ha)を開
発地区として鉄鋼、石油精製、火力発電、アルミなどの巨大コンビナートを建設し、こ
のために、六ヶ所村においては、1175世帯、5323人の立ち退きが必要となるというもの
だった。この計画に六ヶ所村では激しい反対が起こり、三沢市、野辺地町をはずした
7900ha、業種を石油精製、石油化学、火力発電のみに絞った2次案が発表された。2次案
によって、立ち退きを要請された世帯は約360世帯に減少したもののなおも反対が続け
られ、立ち退きをしないですみ、職場を求める立場から開発に賛成の市民との間で対立
が深まっていった。しかし、県はあくまでも開発を進め、1972年からは工業基地の建設
のための土地買収が行われだした。しかし、この時すでに1971年の米国のドル防衛策に
より高度経済成長を支えていた構造が変化しつつあるときだった。71年には、石油化学
工業においても鉄鋼業においても過剰生産が始まっていたのだ。県としては、この時期
に経済予測を建て直し新しい予測に基づいた開発をするべきだったのである。しかし、
計画は続けられ、土地買収は早いテンポで進み1973年末には2000haが買収された。この
年は、六ヶ所村での開発賛成派、反対派の対立がいっそう色濃いものとなり、それぞれ
のリーダーに対するリコール合戦が行われた。リコールは両者とも不成立に終わった
が、73年12月の村長選で開発賛成派の古川村長が反対派立候補者と僅差で当選し、六ヶ
所村は開発推進の行政へと大きく展望をとげたのである。
 古川村長の下で村の土地買収はいっそう進んだが、1973年10月に起きた第一次石油危
機で高度経済成長は終焉し経済情勢が激変してしまった。巨大工業基地を必要とする素
材産業への需要増加はまったく見込めず、経済政策の力点は「省資源・省エネルギー、
知識集約化」へと展望していった。つまり、1973年の村の開発推進決定時にはすでに、
第1次基本計画の前提条件が崩れようとしていたのだ。この経済情勢の変化によって開
発の見直しをなし、県は、大幅な規模縮小を行ったがそれでも縮小した規模に似合う需
要量は存在せず、第2次基本計画はつなぎとしてのものに過ぎなかった。
 1979年には、土地買収面積は3300haを越える広さになったが、肝心の産業は全く進出
せず、国家石油備蓄基地の建設が唯一あったのみで、むつ小川原開発株式会社の借入金
は約870億円に上った。県は立地できるものはなんでも受け入れる体制をこのころから
とり出したが、1983年には借入金は1300億円という膨大な額に上ったのである。そし
て、このような状況下で1984年に核燃料サイクル施設の建設構想が浮上したのだ。


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