原子力発電の展望、六ヶ所村再処理工場のアクティブ試験までの動向


アクティブ試験までの動向
 むつ小川原開発に頓挫し、県としては立地できるものは何でも受け入れる体制となっ
ていた、1983年。当時の首相、中曽根氏が国会議員の選挙応援のために来青した際、青
森市で記者会見を開き、下北半島を日本有数の原子力基地にしたいと発言。「原子力船
母港、原子力発電所、電源開発の高速増殖炉と新しい型の原子炉を作る基地を作ること
で、下北半島を日本原発のメッカとしたら地元の開発にもなると思う」との見解をしめ
した。これを受けて、1984年に電気事業連合会が青森県と六ヶ所村に対して核燃料サイ
クル施設の立地の正式要請を行った。これは、むつ小川原開発株式会社の負債の救済と
いう側面も大きく、ちなみに当時の核燃料サイクル施設とは、ウラン濃縮工場、低レベ
ル放射性廃棄物埋設施設、再処理工場の3施設を指した。ウラン濃縮工場は原子力発電
で使用する濃縮ウランの製造、低レベル放射性廃棄物埋設センターは各原子力発電所の
操業に伴う低レベル放射性廃棄物の最終処分場のことであり、1983年の時点で200リッ
トルのドラム缶換算で52万本分の廃棄物が各原子力発電所に貯蔵されていた。その処分
場が必要になっていたのである。また、再処理工場は高速増殖炉の燃料を製造するため
に重要で日本のエネルギー自立のために不可欠とされた。現在では、この他に高レベル
廃棄物貯蔵センターとMOX燃料工場の5つの施設を核燃料サイクル施設と示している。
 1985年4月、「原子燃料サイクル施設の立地への協力に関する基本協定書」が青森
県、六ヶ所村、原燃サービス、原燃産業、電気事業連合会の間で結ばれ、核燃料サイク
ル施設の六ヶ所村への立地が正式に決定した。核燃料サイクル施設は、むつ小川原開発
計画の第2次基本計画に盛り込まれてはおらず、基本計画に追加する措置が取られた。
1986年前半には、立地協定に基づき核燃施設海域調査が実施されたが、これに対し、泊
漁協を中心に激しい抵抗運動が行われる。しかし、原燃2社は警察機動隊の力を借りて
海域調査を強行したのである。その様子は、映画中でも取り上げられている。
 海域調査と時を同じくして1986年4月、世界を震撼させるチェルノブイリ原発事故が
起きた。この事故が起きた事をうけて、世界各国で脱原発の動きが加速された。国内に
おいても反核運動が高揚することとなる。青森県内では、農業者や各地の女性市民団体
が反核運動を展開し、世論の転換に影響力を及ぼすまでに拡大化、これらの反対運動は
革新政党や労働組合系の運動と連携しあうことで、大きな広がりを見せたのである。
1988年にはストップ・ザ・核燃署名委員会がサイクル施設建設白紙撤回の署名簿、約37
万人分を知事に提出、核燃料サイクル1万人訴訟団が結成された。
 1989年の参院選挙では、核燃反対を掲げる三上隆雄氏が当選。三上氏は農業者である
が、社会党の推薦を受けて全県の反核運動の盛り上がりに支えられて当選した。そし
て、同年12月に行われた六ヶ所村村長選では「核燃凍結」を掲げる土田浩氏が核燃立地
を推進してきた現職の古川氏に代わって当選。このほか、六ヶ所村開かれた「反核燃の
日」全国集会では、約1万人が参加し、反核燃1万人訴訟団はウラン濃縮工場への行政訴
訟を青森県知事に起こした。また、1990年の2月の衆議院選では、核燃反対を掲げてき
た社会党が青森県内で2議席を獲得するに至る。このような核燃反対の運動の盛り上が
りなかで、1991年に行われた県知事選は核燃問題の岐路となった。核燃推進の是非は選
挙の大きな争点になるが、結果としては自民党幹部や電量会社の応援に支えられる形
で、推進派の現職・北村正哉知事が核燃反対の統一候補である金沢茂氏を退け4選を果
たした。その後、「凍結論」を掲げて当選した土田六ヶ所村長も実質的には「慎重な推
進」の姿勢を示すようになり核燃関連施設は次々と建設されるようになる。1988年10月
に着工したウラン濃縮工場では1990年4月に遠心分離機の搬入が開始され、1991年10月
から濃縮操業が開始された。また、1990年11月には低レベル放射性廃棄物施設が着工
し、1992年12月に操業を開始し、再処理事業にも許可が下りる。核燃反対運動は、低レ
ベル放射性廃棄物施設に対する訴訟を起こすなどの方法で抵抗を続けたが、全体として
は次第に勢力が低下していった。
 核燃反対運動が下火になるなか、1995年には海外から変換された高レベル放射性廃棄
物の六ヶ所村への搬入が行われる。1985年に立地協定の際には、高レベル放射性廃棄物
の受入れについては付属施設の扱いであったが、その後、独立した施設へと位置づけが
変わったため、1994年に青森県、六ヶ所村、日本原燃の間で海外返還高レベル放射性廃
棄物の安全協定が結ばれることとなる。この協定の前提として、青森県を知事の意向に
反して最終処分地にしないことの保証がされ、青森県がなし崩し的に廃棄物の最終処分
地になるのではないかという、核燃反対派から投げかけられていた批判を一掃した。 
 1995年に行われた青森県知事選では、新進党の木村守男氏が北村氏を破り当選。木村
知事は国に対して、「原子力レスキュー隊」の設置、高レベル廃棄物最終処分問題解決
の具体的な道筋、プルサーマルの見通しの提示、全県を対象とした電気料金の割引の4
項目を求めていたが、これに対する政府の回答を不服とし、高レベル放射性廃棄物輸送
船のむつ小川原港への接岸を拒否した。国は木村知事に対して、「知事の了承なくして
青森県を最終処分地としない」と回答をし、これを処分地の保証として認めた木村知事
は4月26日に始めてむつ小川原港から六ヶ所村に高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体28
本)が搬入される。以降。2002年までには、英国と仏国から返還された高レベル放射性
廃棄物616本が搬入されている。
 六ヶ所村への廃棄物の搬入はこれにとどまらず、国内で使用された使用済み核燃料の
搬入が、再処理工場操業の原料という名目で1998年に搬入された。しかし、高速増殖炉
の開発が極めて困難なことが次第に明らかになり、各国の相次ぐ撤退もあるなか、1995
年12月8日に福井県で操業中の高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩および火災事
故が発生し、再処理工場の行き先が極めて不透明なものとなった。だが、電力業界は再
処理工場の稼動に固執し続けた。反対派から見れば、「再処理工場の稼動に向けた原料
の搬入」はタテマエであって、「原子力発電所からの使用済み核燃料の搬出を正当化す
るための理由つけ」なのではないかとの疑問があがったが、98年7月に知事は使用済み
核燃料搬入に関する安全協定に調印。疑問が発生しているのにも関わらず、同年10月に
福島第二原発からの使用済み核燃料、約8トンが試験用として搬入したのである。しか
し、この直後に燃料輸送容器の中性子遮蔽材のデータ改ざんが発覚し、科学技術庁と青
森県は日本原燃に対して、使用済み核燃料を使った校正試験と2回目の搬入中断を要請
した。そのため使用済み核燃料の本格搬入が大幅に遅れ、2000年10月に県と国と原燃の
間で本格搬入に関する安全協定が結ばれるまで延期が余儀なくされた。同年12月から本
格搬入が始まり、2002年までには779トンが搬入された。
 また、搬入の1年前の97年には、県の「むつ小川原開発検討調査委員会」が2010年を
目標に環境調和型の「国際的な科学技術都市」形成を打ち出したが、溜まり続ける借入
金が約2400億円に達したため、99年に再建策作りをすることで県と国が一致し、むつ小
川原新会社を設立することが決定。債務処理は、公的資金でかいくぐる事になった。
2000年にはMOX燃料工場の申請も提出し、2008年から2009年頃の操業を目指すことを表
明した。一方、もんじゅの事故後に再処理工場の操業予定は2000年から2003年に延期さ
れる。ところが、2001年12月から溶接不良による貯蔵プールの水漏れが発生。原燃は水
漏れ箇所の発見に手間取った他、03年には、貯蔵ピットや当時建設中の再処理工場内で
も不良溶接が判明。最終的に291ヵ所で見つかり、埋め込み金属の一部を無断で切断し
た不良施工も見つかった。この他、設備や建物の約27基を対象とした検査では66ヵ所で
図面と材質が異なる弁が使われており、硝酸や有機媒体を使った稼動試験では耐酸性が
不十分なゴムパッキンが配管に使用されていたために、再処理工場内での硝酸漏れ事故
も発生。操業を2005年に延ばさなければならなかった。
 不良溶接等の不具合は工場の操業時期を大幅に遅らせたが、2004年に電気事業連合会
は核燃料サイクル推進を満場一致で決議。また、同年には使用済み核燃料をそのまま地
中深くに直接埋めると再処理する半分の費用で済むとの政府試算を95年と98年に出して
おきながら公表していなかった事実が明らかになった。だが、内閣府原子力委員会は核
燃サイクルを維持する事を決めた。この決定を受けて、再処理工場の安全協定が締結。
12月21日から劣化ウランを使用した再処理工場のウラン試験が始まった。また、再処理
工場の不良施工や東電の不祥事を受け立地検討作業が中断されていたMOX工場の立地検
討も再開される。
 2005年に入ると、1月にIAEA事務局長がウラン濃縮・再処理事業を国際共同管理下に
置く構想が実現するまでの暫定措置として「核燃料サイクルを進める国に対し5年間の
凍結を提案したい」と発言したが、2月に原燃社長は「大変困る。(六ヶ所村再処理工
場は)事業として進めているのだから、受け入れられない。」と警戒心を示し、米大統
領もこの方針を支持できないとした。
 3月には原燃は経産省に対し、ウラン試験の遅れを理由に本格稼動時期を2007年8月に
延期したものの、ウラン試験は着々と進められ、2006年3月31日には最終試験であるア
クティブ試験が開始される。また、この頃になるとプルサーマルを受け入れを示唆する
自治体も挙がり、2010年頃を目標としたプルサーマルの要請も進みつつある。

2007年2月7日現在、本格稼動予定日は2007年11月に延期された。


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